2019年3月2日土曜日
読書の感想:高野秀行著「幻獣ムベンベを追え」(集英社文庫)
ポスドク時代にアフリカで取ったデータを使って,一通り論文の原稿を書き上げた.何年も前に取ったデータをいまさら論文化しているのは恥ずかしい限りだが,昔に比べると論文を書くスピードもいつの間にか上がっているのを実感する.アクセプトまでスムーズにいくことを期待しよう.
さて,今回は,その論文の話ではなく,先日読んだアフリカ関連の本の感想を書いておきたい.アフリカというのは、普通の日本人にとって、精神的に最も遠い距離にある大陸だろう。サハラ以南,いわゆるブラックアフリカの国々となると、「現地に住む人々の暮らしや風土、あるいは文化はまったく想像できない」という人が多いに違いない。
それは、私にとっても大きくは変わらない。ポスドク時代の4年間、一年の半分近くを中央アフリカの「ガボン共和国」で過ごした。中央アフリカの人々に接した物理的な時間は相当程度に長い.しかし、彼らのことを理解できたという実感はまるでわかない。私の中に残っているのは、ガボン人に対するネガティブな印象だけだ。私の「アフリカ体験」は、心の中にうまく居場所を見つけられないでいる。
そんな私でも、ガボンを含む中央アフリカの国々が本や雑誌で取り上げられていると、やはり興味を覚えて手に取ってしまう。アフリカ人に対する我々のまなざしを正面から捉えた硬派な本は読むのはしんどいが、もう少し気軽な体験記は私の読書範疇内にある.
今回読んだ高野秀行著「幻獣ムベンベを追え」(集英社文庫)という奇妙な探検記も、コンゴ人民共和国(というガボンの東側にある国)を舞台にした愉快な(はずの)探検記だ。高野氏は、知る人ぞ知る「辺境専門のライター」。世界の様々な辺境に出かけて行った体験をそのまま描いているノンフィクション作家だ。私も、何冊かの本を読み、暗さも深刻さも微塵もない痛快な内容にすっかり魅せられてしまった。そんな高野氏が,学生時代,コンゴ奥地の湖に生息する謎の怪獣「モケーレ・ムベンベ」を探しに行った顛末を記したのが,この本だ。
私は、オカルト的なものには興味はない。いくらコンゴ盆地という未開の地だからと言って恐竜の生き残りが潜んでいることもないだろう(私より一世代前の人たちが、なぜあれだけオカルトに熱中できたのかということは社会学的に非常に興味深いことだとは思うけど)。しかし、のちに世界各地の辺境を訪れることになる高野氏が、中央アフリカの密林とそこに住む人々をどうとらえ,何を感じたのかには非常に興味を覚えたのだ。
読んだ感想を一言でいえば、奇妙な共感を覚える本だったということだ。
高野氏一行は、モケーレ・ムベンベに出会うために,最寄りの村から50㎞以上離れた場所にキャンプを構え、湖の観察を続ける。その間の生活はまさに波乱万丈だ.一緒に行った探検仲間の体調不良,ガイドとして雇った村人とのいさかい、現地の動物学者という悩ましい存在、計算して持ってきたはずなのに足りない食事(もちろん一部を盗まれたからだ)、疲れからくるモチベーションの低下、そして何より目的を達せないまま終わる結末のあっけなさ…。こうした体験は、私と後輩がマンドリルを捕獲(もちろん研究のためにガボン政府から正式に許可を取ってあった)するために格闘していたころとかなり共通する。
例えば,首都から連れて行った現地研究者と村人の対立について、高野氏は次のように表現している「われわれが知らないうちにトラブルが発生、進展し、最後はこちらに火の粉が全面的にふりかかるといういつものシステムである」。この感じ,わかる人にはわかってもらえるはずだ!
マンドリル捕獲体験じたいは私の中で今となってはいい思い出だから、この本でそれを「追体験」できるのは楽しいことだ(「マンドリルを捕獲できる確率なんて,モケーレ・ムベンベ見つけるのと大して変わらない」という皮肉を言いたくなる気持ちはさておき)。しかし,読んでいて少し辛いのは、この本の中に出てくるコンゴの村人たちが,ガボンで出会った村人たちとそっくりなことだ。頼んだ仕事を満足にしてもらえなかったり、法外な謝金を要求されたりすることはどこの国でもあることだろう。だけど、(高野氏はさらりと書いていることだけど)次のような描写に、私は、自分の見たガボンの村との共通性を感じてしまう。
いよいよベースキャンプを撤収するため、ポーター(荷物運びとして雇った村人)がキャンプに迎えに来る。そのとき、「(前略)、陳情ラッシュが始まった。まず、ポーター間に起きたもめ事が私のところに持ち込まれる。そんなことは私の管轄外だというのに、少しでも自分の立場を有利にしようと入れ替わり立ち代わり「ちょっと話がある」と言って、やって来る」(p256)。
目に浮かぶようだ。彼らは、どう考えても自分たちで解決しなければならない村人同士の問題を、必ず部外者の「白人(日本人を含む)」に訴え解決してもらおうとする。(少なくとも白人のいる前では)自分たちで話し合って問題を解決しようとすることをハナから放棄してしまうのだ。彼らには、自分たちの力で村人同士の関係性の秩序を形成・維持する力が決定的に欠けている。
こうした究極的な意味での白人依存が、どのような背景で生まれたのかは私にはわからない。過去の植民地時代の白人との関係や独立以降の政府と村人の関係が影響しているのかもしれない。高野氏の本に書かれているいくつかのエピソードからも、おそらくガボン共和国内だけではなく、中央アフリカのかなりの数の村々で,自前の秩序維持機構が失われてしまっているのではないかと思えてくる。
この本に登場する学生たちの爽快な姿とは対照的に、私はこの本を読んで(もちろん本自体は痛快な探検記なんだけど)中央アフリカの村々が抱える闇の深さを感じさせられてしまった気がした。
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