先日,研究室の有志メンバーと尾瀬に行ってきた.うちの大学は私立大学にしては珍しく付属演習を所有していて,その一つが群馬県の水上にある.8月の実習で自動撮影カメラを設置したので雪が降る前に回収する必要があった.ついでに足を延ばして尾瀬ヶ原を散策してきたのだ.
尾瀬と言えば,日本の自然保護運動のメルクマールとなった場所だ.その固有の自然を愛した親子三代がダムや自動車道の建設に反対し続けたという物語は,三代目が保護運動の半ばで遭難死したという悲劇もあわせて,確かにドラマチックである.そして,運動の盛り上がりと成功は時代の転換を象徴するものでもあった.
私の時代には,小学校6年生の教科書(光村図書)に「守る、みんなの尾瀬を」が掲載されていたこともあり,尾瀬や水芭蕉という言葉の響きに,今でも一種のロマンチシズムを感じてしまう.今回読んだ新書は,その元となった本である.
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新書絶版なので古本で手に入れた. |
大人になって改めて読みなおすと,小学校の頃とは全然違った印象を持つ.例えば,平野一家が尾瀬とかかわるようになった始まりは,結構めちゃくだ.一代目長蔵氏は,明治3年の生まれで,青年期に若干怪しげな信仰心と燧ケ岳と尾瀬周辺の自然への愛に目覚め,尾瀬沼近くに勝手に山小屋を建てて移り住んでしまった.どうやら,生まれ育った村の居心地が悪くなったことも背景にはあったらしい.それが尾瀬保護へと至るそもそもの始まりなのだ.
この本では美化されているが,長蔵氏が「奇人」であったのは確かだろう.寄付を募って燧ケ岳に参道を付け山頂に祠を建てたり,出来そうもない殖産事業(例えば尾瀬沼での養魚事業)を片っ端から試みたり,あるいは,尾瀬に発電計画が持ち上がった時には自ら内務大臣に中止を請願したりと,行動力に長け,頑固一徹,周囲におもねるところのまったくない人柄が目に浮かぶ.遠くから眺めている分にはいいが,身近にいると迷惑な厄介者.おそらくそんな感じだろう.
燧ケ岳を背景に |
しかし,個性豊かな彼の振る舞いとその成功も,やはり時代に根差したものだったことにも確かだ.例えば,信仰の対象も,国家神道の一流派であり,村の素朴な山岳信仰とは必ずしも相いれなかった.立ち上げた組織名が「燧嶽神社附属愛国講社」だったということにも時代を感じる.彼の燧ケ岳の参道の設営や山頂への祠の建設のための寄付集めも,人々の愛国心に訴えることによるものだった.
一代目のほど強引さはないが,ニ代目、三代目の暮らしと保護運動も,その時々の時代の空気と無縁ではないだろう.二代目長英氏の山小屋経営が成立したのは登山ブームと無縁ではないし,三代目の長靖氏が始めた自動車道の反対運動も経済発展一辺倒の時代からの転換点と重なっていた.運動が本格化した1960年代後半と言えば,70年安保運動の最盛期だ(長靖氏も京大の学生時代は自治会で活発に活動したようだ*1).また,水俣病がチッソ株式会社による公害と正式に認められたのも1970年だ(環境庁の設立も同じ年)。彼らの生活や尾瀬保護運動は、当時の流れに逆らうもののように見えて、実際にはその時代を独自の在り方で反映した鏡の一部だったのだ.
*1 長英氏は,尾瀬の山小屋に生まれ育ち,毎日往復20キロの道のりを歩いて中学に通ったという.それで京大に行くって相当の秀才な気がする…
林道でリスが出迎えてくれた |
それでもやはり,強力な個性を持つ人間がいたからこそ,尾瀬という自然が護られたという事実は間違いない.それは「もし彼らがいなかったらどうなっていたか」を想像すれば明らかである.度重なる尾瀬の危機すべてに対応できることはなかっただろう。同じことは,尾瀬の自動車道建設を最終的に認めなかった環境庁長官大石武一氏についても言える.医師でもあり植物学への理解も深かった大石でなければ,強い反対を押し切った決定はなされなかったはずだ.歴史はある方向にしか変わらないが,特異な人間の存在と偶然が組み合わさることで出来上がる世界は確かに存在するのだ.
「昔の人は立派だった」的な感想は,あまり抱く必要もない.そもそも保護運動のきっかけが奇人の個人的信条に端を発していることは書いた通りだ.しかし,今と比べて,外れ値とも言える個性が確かに存在しえたこと,その外れ値が生み出す奇特な物語があったこともまた確かなことだ.窒息しそうな今の時代、多くの人が尾瀬が紡いだ唯一無二の物語にきっと魅了されるはずだ。私にとってもそれは同じだ。小学生の時には違った尾瀬の豊かさに触れられた今回の散策は,実に有意義なひと時だった.